Glass 6 / 1巻
『永』の技
「ミスター・パーフェクト」と呼ばれる伝説のバーテンダー葛原隆一が、叙勲記念パーティーで自らマティーニを作ってみせる。その夜『ラパン』に現れた葛原があえて注文したのは、一番ありふれたジンフィズだった。
この話に出てくるお酒
- ジンフィズ
- この話の主役。葛原が「ジンフィズを頂こうか」と、わざわざ一番ありふれたものを注文する(三輪は「なぜそんなありふれたものを…」と驚く)。佐々倉が出したのは型どおりの一杯ではなく、砂糖をシロップでも上白糖でもなく讃岐の和三盆に替え、さらに熟成した古いキューバンラムを数滴落とした版。飲んだ葛原は「この微妙なコクは何だ…ジン・レモン・砂糖・炭酸、それ以外に何を?」と言い当てにかかり、ラムの数滴までは見抜くが和三盆は当てられない。シェイクして炭酸で満たす、という手順だけが描かれ、比率の数字は作中に出てこない。作中の銘柄:ジンは BEEFEATER のボトルが描かれる。隠し味に垂らす熟成ラムは「レジェンド・オブ・キューバン・ラム(Fine Old Cuban Rum, Pre-1962)」。炭酸水は TANSAN / SPARKLING と読めるボトルだが銘柄までは判別できない
- マティーニ
- この話に2回出てくる。1回目は回想で、葛原が客として元弟子の店を訪れ「じゃあ…マティーニを」と注文し、一口で「お前のステアはパーフェクトではない」「氷を殺した」と断じ、酒を捨てて破門する場面。2回目は叙勲パーティーの会場で、葛原自身がミキシンググラスでステアして振る舞う一杯。オリーブ入りのカクテルグラスで「どうぞすぐお召し上がり下さい」と出され、観客からは「氷がぶつかると溶けて水っぽくなるというが、まるでミキシンググラスの中を滑るようだ」という評が出る。三輪の感想は「何て優しい香り、それに柔らかな口当たり…」。どちらも比率は作中に書かれていない。
- ソルティドッグ
- 葛原が帰ったあと、来島泰三が「やっぱりソルティードッグ! 塩を大盛りで」と注文する。理由は味ではなく「塩まいて一応厄払いしとかなきゃ、もう来るなよって!」で、佐々倉は苦笑しつつ「カクテルをそういうことに使うのはちょっと…」と言いながらシェーカーを手に取る。指定は塩を通常より大量に、というところまでで、比率は書かれていない。出来上がった一杯を飲むコマはないまま話が終わる。
「『永』の技」= ジン・フィズ
題の『永』は酒の名前ではない。来島泰三がカウンターの水で書いてみせる書道の「永」の字のことで、作中の説明は「『永』の字には習字のすべての要素が入っとる」。縦・横・点・ハネ・止め・払いが一字に揃っている、という永字八法の話をそのままカクテルに重ねてくる。同じようにジンフィズには、シェイクの技から酒と果汁の比率、炭酸や氷の扱いまで、バーテンダーの基本技術がすべて入っている、と続く。つまりこの回の「永の技」はジン・フィズを指している。
ジンフィズが基本技術の総ざらいになるのは、工程が2種類混ざっているからだ。ジン・レモン・砂糖はシェイクで冷やして混ぜる。そこへ炭酸を注ぐところは、逆に混ぜてはいけない作業になる。冷やす技と、冷えたものを壊さずに注ぐ技が1杯の中で連続する。材料も4つしかなく、割りものの甘さで誤魔化す余地がない。だから葛原はあえて一番ありふれたものを頼んだ。腕を見るのに一番向いているのが、一番平凡な一杯だという理屈になっている。
作中ではジン・フィズの由来も語られる。1888年、アメリカ・ニューオーリンズのインペリアル・キャビネット・サロンのバーテンダー H.ラモス氏の創作、という説明が入る。名前だけ聞いて分かるとおり、うちに収録しているラモス・ジン・フィズはこの人の名を冠した一杯だが、作品名としては作中に出てこない。ここでは創作者の話として触れられているだけ。
「氷を殺した」とは何を言っているのか
回想の破門の場面で、葛原は一口飲んだだけで「お前のステアはパーフェクトではない」「氷を殺した」と言って酒を捨てる。ステアで氷の角を削ってしまった、という意味だ。削れた氷は細かい欠片と水になり、酒を薄めながら同時に冷却も鈍らせる。狙いより薄くて、狙いよりぬるい一杯ができあがる。だから飲めば分かる、という話になっている。
その裏返しが、パーティー会場で葛原のステアを見た観客の評だ。「氷がぶつかると溶けて水っぽくなるというが、まるでミキシンググラスの中を滑るようだ」。氷同士をぶつけず、壁に沿って滑らせて回す。そうすれば混ざりと冷却だけが進んで、余計な水は出ない。バースプーンで氷を押すのではなく、グラスの内壁に沿わせて氷ごと一体で回す、という動かし方になる。氷がカチカチとぶつかる音がしていたら、その時点でもう削れている。
ただし作中には回数も秒数も比率も出てこない。何回まわせば正解かは書かれていないので、こちらでも書かない。示されているのは音と手つきだけで、それでも飲めば差が出るという立て方をしている。ちなみに来島泰三は、その完璧なマティーニに「申し訳ない、ワシはやめておこう」と口をつけない。技術が完璧かどうかと、飲みたいかどうかは別だ、という伏線がここに置かれている。
佐々倉が葛原を素人でないと見抜いた理由も、道具の側から描かれる。ひとつは注文の仕方、もうひとつは「お客様の右手の小指、シェイカーのタコ」。そしてラストで葛原は「君のカクテルは完璧からは程遠い。ならばひとつだけ教えてあげよう」と言うが、その中身はコマに描かれないまま店を出る。
和三盆とラム数滴 — 家でやるとどうなるか
うちのジンフィズはジン45ml・レモンジュース20ml・シュガーシロップ10mlをシェイクして、氷を入れたタンブラーに注ぎソーダで満たす。作中の佐々倉はこの砂糖の部分を和三盆に替えている。和三盆は糖蜜を完全には抜いていない含蜜糖に近く、上白糖にはないコクと香りが残る。粒がきわめて細かいのも効いていて、シェイクの短い時間でも溶けきる。
ただし冷えた液体に粉のまま放り込むと、それでも溶け残ってシェーカーの底に沈む。確実なのは先にシロップにしてしまうことで、和三盆と水を同量で合わせ、弱火か湯煎で溶かして冷ます。これを普通のシュガーシロップと同じ10mlぶん使えばいい。溶かさずにやるなら、砂糖とレモンジュースだけを先に合わせてよく混ぜ、完全に溶けてからジンと氷を入れる。
もうひとつが熟成したキューバンラムを数滴。樽で寝た古いラムはバニラとカラメルの側の香りを持っていて、数滴でも香りだけがジンの上に乗る。作中で葛原がラムの存在は見抜けたのに和三盆は当てられなかったのは、この量の按配をよく表している。香りとして立つが、正体までは追い切れない量だ。家でやるならバースプーン1杯以下、はっきり分からない程度から入れて足していく。安い若いラムでやると砂糖臭さだけが出るので、これは酒の質がそのまま出る足し方になる。
炭酸のほうは作中に説明がないが、ここが一番落としやすい。ソーダもグラスも冷蔵庫でよく冷やしておき、注ぐときは氷に当てず、グラスの縁を伝わせて落とす。最後に混ぜるならバースプーンを一度立てて引き上げるだけでいい。かき混ぜるほど気が抜けて、せっかくのフィズが名前負けする。
塩を大盛りのソルティ・ドッグ
締めに出てくるのが来島泰三のソルティ・ドッグで、注文の理由が「塩まいて一応厄払いしとかなきゃ」。飲みたいから頼んだのではなく、葛原が帰ったあとの店に塩を撒く代わりに頼んでいる。佐々倉が「カクテルをそういうことに使うのはちょっと…」と苦笑するのが、この話の最後の一言になっている。
なお、うちのレシピではソルティドッグはビルド(グラスの中で直接組む)だが、作中の佐々倉はシェーカーを手に取っている。塩を大盛りにすると縁から落ちた塩が中で溶けるぶん、先に振って一体にしてしまう作りもある。塩は粗塩をグラスの縁に厚く付けるスノースタイルで、量が増えるほど最初の一口が塩に持っていかれる。グレープフルーツの苦味と塩気は本来は釣り合わせるものなので、大盛りは味としては崩しにいっている指定になる。作中でもその一杯を飲むコマはないまま終わる。
当ページは作品の紹介と、作中に登場するお酒についての解説です。作品本文・画像の転載はしていません。 引用した台詞は解説に必要な範囲にとどめています。
『バーテンダー』/城アラキ・長友健篩/集英社・スーパージャンプ