Glass 7 / 1巻
スーズの記憶
接待帰りに『ラパン』へ流れた冷徹なエリート、早瀬部長代理。「あと一時間、お任せで3杯」という注文に佐々倉が出したのは、8年前パリで一度だけ会ったときと同じ順番の一杯だった。ゲンチアナの苦いリキュール、スーズが早瀬に昔の自分を思い出させる。
この話に出てくるお酒
- 水割り
- 早瀬に同行した取引先の年長者2人(三松商事の三田係長と吉田機械の吉田社長)が「私たちは水割りでいい」と自分たちの分だけ注文する。銘柄は描かれず、作り方の描写もない。後半に映る勘定書きにも「水割り2杯」とだけ載っていて、この話では完全に脇役の扱いになっている。
- エチュード(スーズのシャンパン割り)うちのバーには未収録
- 「あと一時間、お任せでカクテルを3杯」という注文の1杯目。フルートグラスで供され、早瀬は「爽やかでとても美味しいよ」と言う。佐々倉の答えは「昔あるお客様に教えていただきました」。作中の説明は『スーズのシャンパン割り』というところまでで、比率も技法も書かれていない。この時点では早瀬はまだ、その『あるお客様』が自分だと気づいていない。作中の銘柄:スーズ(ラベルに SUZE 1889 と読める)。シャンパンの銘柄は明記なし
- スーズ・ギムレットうちのバーには未収録
- 2杯目にして、この話の転換点。ピカソとスーズの話(20世紀初頭のパリ、青の時代、リンドウの根から作る黄色いリキュール)を聞いたあとに供され、飲んだ早瀬が8年前のパリを「思い出した!」となる。レシピも比率も作中には出てこない。味の描写は「スーズのかすかな苦みとライムの酸味が一体化して、奥深い甘ささえ感じる」で、ライムを使うことだけがここから分かる。作中の銘柄:スーズ(ボトルが明確に描かれる)
名前が出ただけのお酒
- シャルル・ジョルダン
- 佐々倉が「お客様のいつもの3杯目」として名前を挙げるが、この夜は供されない。早瀬は2杯で店を出る(勘定書きもカクテル2杯+水割り2杯+チャージで7,600円)。最終ページ、和解した早瀬の前にステム付きのグラスが置かれるコマがあるものの、酒名は書かれていないので3杯目かどうかは断定されていない。
- martini
- 早瀬が「ホテル・ダイヤモンドスターの葛原チーフのマティーニを飲んでみたい」と口にするが、予約が取れず実現しない。葛原隆一は Glass 6『『永』の技』でマティーニをステアしてみせた当人で、ここでは名前だけが通り過ぎる。
「スーズの記憶」= スーズという酒
題のスーズは実在のフランスのリキュールで、作中でボトルのラベルまで描かれる(SUZE 1889)。原料は野生のゲンチアナ、つまりリンドウの根。花ではなく根を使うので、色は花の青ではなく濃い黄色になる。作中の説明もそこから始まって、20世紀初頭のパリのカフェで安く飲まれていた酒だ、と続く。背景にはカフェ・ド・フロールの看板が描かれている。
そこにピカソが重ねられる。貧困と孤独のなかにいた『青の時代』のピカソが愛した酒がこれで、彼はスーズの瓶をそのまま静物画にも描いている。金が無い時代に飲める苦い酒、という位置づけがそのまま早瀬の8年前と重なる仕掛けだ。話の締めに置かれるのがリンドウの花言葉「Sorrowful you」で、作中では『君の悲しみに寄り添う』と訳される。題の『記憶』は、早瀬が忘れていた自分の記憶であり、同時に一度きりの客を覚えていた佐々倉の記憶でもある。
味のほうを先に言っておくと、スーズはリキュールに分類されるが甘い酒ではない。ゲンチアナの苦味がまず来て、後から蜂蜜のような甘さがついてくる。度数も20度に届かない低さで、フランスでは食前酒として水や炭酸で割って飲まれてきた。この話で2杯とも割りものや果汁と合わせてあるのは、そういう酒だからでもある。
2杯とも同じ酒で組む、という注文の受け方
早瀬の注文は「あと一時間、お任せでカクテルを3杯」。銘柄も種類も指定しない、バーテンダー側に全部預ける形の注文だ。これに対して佐々倉が出したのが、スーズのシャンパン割りとスーズ・ギムレット。1杯目と2杯目で主役の酒を変えていない。お任せで来た客に同じリキュールを続けて出すのは、普通なら手抜きに見える組み方になる。
それが成立しているのは、これが8年前に早瀬自身が飲んでいた順番だからだ。1杯目は泡で軽く入って、2杯目でライムと合わせて酒の輪郭を出す。同じ酒を、薄い側から濃い側へ並べている。順番として理にかなっているうえに、飲んだ本人にしか分からない再現になっている。だから2杯目で早瀬が思い出す。
1杯目のときの佐々倉の答え「昔あるお客様に教えていただきました」も、嘘は一つも言っていない。教えたのは早瀬本人で、8年前のパリのバー(作中の表記は1996年6月、ラッツホテル)で佐々倉に飲ませたのがこの並びだった。順番を含めて覚えている、というのがこの回の技になっている。なお比率も技法も、2杯とも作中には一切書かれていない。書かれているのは酒名と、飲んだ人間の顔だけだ。
家でスーズを2杯に割る
スーズは日本でも普通に買える。1本あると使い道が広い酒で、まずそのまま炭酸で割ればフランス式の食前酒になる(スーズ30mlに炭酸90ml、氷とレモンピール)。ここから作中の2杯へ進む。以下の分量はうちの側で組んだもので、作中には数字が出てこない。
1杯目のエチュード、つまりシャンパン割りは、キール・ロワイヤルと同じ考え方でいい。冷やしたフルートグラスにスーズを15〜20ml入れて、よく冷えたシャンパンかスパークリングワインで満たす。混ぜない。泡が上がるときに勝手に混ざるので、バースプーンを入れるとせっかくの気が抜けるだけになる。スーズは色が濃いので、注いだ直後は下が黄色く残って、飲み進めるうちに揃ってくる。甘口のスパークリングだと苦味と喧嘩するため、辛口(ブリュット)を選ぶ。作中は爽やかで飲みやすい一杯として描かれているので、迷ったらスーズを15mlまで減らす。
2杯目のスーズ・ギムレットは、うちのギムレット(ドライジン45ml・ライムジュース15ml・シュガーシロップ1tsp)の置き換えとして組むのが素直だ。ジンをそのままスーズ45mlに替え、ライムジュース15ml、シロップは入れない。スーズ自体に糖分があるので足すと甘くなりすぎる。作中の「かすかな苦みとライムの酸味が一体化して、奥深い甘ささえ感じる」という描写は、砂糖を足していない状態の話だと読める。
ただしこの置き換えだと、ジンの45度がスーズの15度前後に落ちる。ショートカクテルとしては薄い一杯になるので、酒として立たせたいならドライジン30ml+スーズ15ml+ライムジュース15mlで振る組み方もある。どちらが作中の一杯かは書かれていないので、断定はできない。氷でしっかり冷やして短めに振り、カクテルグラスへ。ライムは生を搾ったほうがいい。コーディアルの甘さが入ると、スーズの苦味が真ん中に立たなくなる。
3杯目が出てこない話
佐々倉は「お客様のいつもの3杯目」としてシャルル・ジョルダンの名を挙げる。ところが早瀬はこの夜、2杯で店を出る。勘定書きはカクテル2杯・水割り2杯・チャージで7,600円。お任せで頼んだ3杯のうち1杯が残ったまま終わる、という締め方になっている。最後のコマで早瀬の前にステム付きのグラスが置かれるが、それが何かは作中に書かれていない。
同じ夜、早瀬は「ホテル・ダイヤモンドスターの葛原チーフのマティーニを飲んでみたい」とも言う。こちらも予約が取れず実現しない。飲みたい一杯が飲めない、いつもの一杯も出てこない。この回は供されなかった酒のほうが多い話で、そのぶん実際に出た2杯のスーズが効いてくる。
一緒に来た取引先の2人が頼むのは水割り2杯だけだ。接待の席をそのまま引きずった注文で、彼らはバーの側へ渡ってこない。同じカウンターで、片方は自分の記憶を掘り起こされ、片方は仕事の続きを飲んでいる。バックバーには Gordon's や SLOE GIN のボトルが並んでいるが、台詞では一度も触れられない。
当ページは作品の紹介と、作中に登場するお酒についての解説です。作品本文・画像の転載はしていません。 引用した台詞は解説に必要な範囲にとどめています。
『バーテンダー』/城アラキ・長友健篩/集英社・スーパージャンプ