漫画とお酒 / バーテンダー

Glass 8 / 2巻

完璧な味

雨の日、会長が佐々倉を連れて行った先はホテル・ダイヤモンドスターのバー「K」。チーフの葛原と同じカクテルを作らせて飲み比べる、という趣向で、注文役の孫娘・美和が選んだのはマンハッタンだった。同じ酒・同じ技法で、二人の一杯がどこで分かれるかだけを見せる話。

この話に出てくるお酒

マンハッタン
葛原と佐々倉が同じ銘柄・同じ技法(ステア)で1杯ずつ作り、美和が飲み比べる。指名の理由は「ジャケットの色が赤だから」「マティーニが王様ならマンハッタンは女王」。佐々倉は丸いグラス(クープ型)で、美和の体温が上がっていたぶん冷やしすぎないように作る。第一印象では佐々倉の一杯が「丸みがあってもっと美味しい」と選ばれるが、時間が経つと葛原のほうが味を上げてくる。比率もビターズの有無も作中には書かれていない。作中の銘柄:ウイスキー=カナディアンクラブ(ボトルに CANADIAN CLUB)、スイートベルモット=チンザノ・ロッソ(CINZANO ROSSO)。葛原が「ウイスキーはカナディアンクラブ」「スイートベルモットはチンザノ」と宣言し、佐々倉も「ええ」と受ける

名前が出ただけのお酒

martini
美和がマンハッタンを選ぶときに「カクテルの王様」として名前を挙げるだけで、この夜は作られない。葛原のマティーニは Glass 6『『永』の技』で一度描かれていて、Glass 7 では早瀬が飲みたがって果たせなかった一杯でもある。

「完璧な味」= 条件を全部そろえた飲み比べ

この回は珍しく、酒が客の事情に合わせて選ばれない。会長が「同じカクテルを作らせて飲み比べたい」と言い出し、葛原が受け、注文役として呼び出された孫娘の美和がマンハッタンを指名する。理由は「今日のジャケットが赤だから」「マティーニが王様ならマンハッタンは女王」。つまり酒の選定にストーリー上の必然はない。ここで比べたいのは酒ではなく作り手のほうだからだ。

だから条件が徹底して揃えられる。葛原が「ウイスキーはカナディアンクラブ」「スイートベルモットはチンザノ」と宣言し、佐々倉が「ええ」と受ける。銘柄が同じ、技法もどちらもステア、客も同じ一人。変数を全部潰したうえで残るものが何か、という組み立てになっている。マンハッタンは材料が2つ(+ビターズ)しかない古典カクテルなので、この実験には向いている。隠れる場所が無い。

ちなみに作中に比率は一度も出てこない。ビターズを入れたかどうかも描かれない。うちのレシピはウイスキー45ml・スイートベルモット20ml・アンゴスチュラ1dash だが、これは作中の数字ではなく標準的な組み方のほうだ。この話が数字を書かないのは、書いても差が説明できないからでもある。同じ数字で作って味が違う、というのがそもそもの主題になっている。

ステアで作中が言っていること

葛原のステアは工程が細かく描かれる。まず氷のサイズを選んでミキシンググラスに隙間なく詰める。軽く回して氷の角を取り、それでミキシンググラスを冷やし、溶けた水は捨てる。混ぜるときはバースプーンの背を常にミキシンググラスの外側に触れさせ、氷の動きに逆らわない方向に回す。ここまでは家でもそのまま真似できる手順だ。

言葉のほうで軸になっているのが「足し算ではいけない、かけ算にならねば意味がない」。酒の個性を殺さないように合わせつつ、氷が溶けすぎないうちに素早く混ぜる、という説明が続く。そして一番大事なのは「どこで混ぜるのを止めるか」だと言う。混ぜすぎれば水が入って薄くなり、混ぜ足りなければ2つの酒が一体にならない。ステアの技術というのは結局この止め時のことだ、という言い切りになっている。

回数は書かれていない。何回転、何秒、という数字は作中に一度も出ない。マンハッタンのステアを「13回半」のように数字で語る流儀は現実のバーにもあるが、この話はそこへ行かない。氷の大きさもグラスの温度も酒の温度も毎回違うのだから回数では決まらない、という立場に見える。実際、次に見るとおりこの回の勝負は温度の話に着地する。

体温から25〜30度離す、という温度の話

佐々倉のほうの説明は技法ではなく温度だ。人の舌は体温より25〜30度離れた温度をおいしく感じる、という前提を置く。体温が36度なら6〜11度あたりが当たりになる計算で、そこから外して冷やしすぎるとうまくない。この夜の美和は急に呼ばれて走ってきていて、汗ばむほど体温が上がっている。だから冷たすぎないように作った、という筋になっている。グラスも丸いクープ型を選んでいて、口が広いぶん温度が上がりやすい形だ。

第一印象は佐々倉の勝ちになる。美和は最初の一口で「丸みがあってもっと美味しい」と佐々倉のほうを選ぶ。ところが時間が経つと逆転する。葛原のマンハッタンは温度が上がってくるほど味が良くなり、崩れない。葛原の説明では、彼の一杯は混ぜているのではなく完全に一体化して「創って」あるので、温度が動いても分離しない。佐々倉は「今日は完敗だったなあ」と認めて話が終わる。

この決着の付け方は面白い。佐々倉がやったのは客に合わせた最適化で、飲み始めの一口に照準を合わせている。葛原がやったのは、どの温度でも成立する状態を作ることだ。前者は正しいが条件が変われば外れる。後者は条件そのものに強い。題の「完璧な味」は、おいしさの話ではなく、時間に対して崩れないという意味で使われている。

家でマンハッタンを作るときに効くところ

カナディアンクラブとチンザノ・ロッソという組み合わせは、家でそのまま買える。どちらも量販店の棚にある価格帯で、しかもマンハッタンとして王道から外れていない。カナディアンウイスキーはライ麦を使いつつ穏やかで、バーボンほど甘く出ない。チンザノ・ロッソのハーブと苦味が乗る余地が残るので、2つの酒が並んで見える一杯になる。作中が銘柄を宣言してから始めるのは、そこを揃えないと比べる意味がないからだ。

うちの組み方はウイスキー45ml・スイートベルモット20ml・アンゴスチュラビターズ1dash、ステアしてカクテルグラス、マラスキーノチェリー。作中に数字は無いので、ここはこちら側の標準だと思ってほしい。ビターズ1dashの有無で締まり方がかなり変わる一杯で、入れないと輪郭がぼやける。作中の描写からは入れたかどうか読み取れない。

作中の手順で家に効くのは3つある。ひとつ、氷はミキシンググラスに隙間なく詰める。氷が動き回ると水っぽくなる。ふたつ、詰めた氷を軽く回して角を取り、その水を捨ててから酒を入れる。これでグラスが冷えて、以降の希釈が減る。みっつ、バースプーンの背を器の壁に沿わせて、氷の流れに逆らわずに回す。氷同士がぶつかると割れて水が出る。どれも道具を買い足さずにできて、効き目がすぐ分かる。

止め時のほうは数字にしないほうがいい。目安として、材料を入れてから15〜20回転くらいで一度味を見る(ステア用の少量をスプーンで取る)。氷が動かなくなるほど回すのは明らかに行き過ぎで、グラスの外側に霜が薄く付いたあたりが切り上げどころになる。それと、この話にならうなら飲む相手の状態を見る。走ってきた人、風呂上がりの人には冷やしすぎない。逆に冷房の効いた部屋で長く座っている相手なら、しっかり冷やして問題ない。

当ページは作品の紹介と、作中に登場するお酒についての解説です。作品本文・画像の転載はしていません。 引用した台詞は解説に必要な範囲にとどめています。
『バーテンダー』/城アラキ・長友健篩/集英社・スーパージャンプ