漫画とお酒 / バーテンダー

Glass 11 / 2巻

クリスマスの奇跡

クリスマスで賑わうイーデンホールに、場違いな身なりの男がひとりで現れる。「シャンパンなど金持ちの道楽」と言って断る数値流体力学の沖田教授に佐々倉は黒ビールを出し、やがて「ビールとシャンパンは決して混じらない」という教授の言葉から、2本のボトルを両手で同時に注ぐ一杯——ブラック・ベルベットの賭けが始まる。

この話に出てくるお酒

ブラック・ベルベット
題の「奇跡」がそのまま指している、この回の主役。「ビールとシャンパンは永遠にまじわらない」と言い切った教授に、佐々倉が「では…混ぜてみましょう」と出す賭けの一杯。作中の作り方は、左右の手に持ったシャンパンとスタウトのボトルから、立てたままのフルートグラスへ同時に同量を注ぐ両手注ぎで、これを3秒でこぼさず注ぎ切る。ボトルの重さも注ぎ口の口径も違うため神業とされ、「このスピードで注げるバーテンダーは日本に5人といないはず」と言われるが、佐々倉自身は泡の立ち方と流量をコントロールする練習をすれば誰でも出来る、と答える。味は「ビール以上のビール、シャンパン以上のシャンパン」で、喉越しは絹のビロードのようになめらか。ベルベットはもともと鹿の角に生える柔らかい産毛を指すラテン語で、つまり「黒いビロード」という名前になる、と作中で説明される。作中の銘柄:モエ・エ・シャンドン + ギネス エクストラ スタウト
黒ビールうちのバーには未収録
シャンパンを断った教授に、佐々倉が「では他のものを何か?」と聞いて出す一杯。教授の返事は「今日は黒にしよう」で、グラスに注ぐだけの、作り方のない酒として出てくる。この黒ビールに付いているのが泡の薀蓄で、ノーベル賞物理学者ドナルド・グレーザーがビールの泡を見て泡箱を思いついた、という逸話が語られる。飲み物としてより先に「泡を見る装置」として黒ビールが置かれていて、それが最後のブラック・ベルベットの片側になる。作中の銘柄:ギネス エクストラ スタウト(ボトルのラベルが読める)
シャンパンうちのバーには未収録
冒頭のクリスマスの賑わいで、別々の客に開いている2本。同伴の女性客たちがグラスを掲げているのがドンペリのロゼで、メニューを見ていた二人客が「この店 ワインこれだけぇ?」と言いながら頼むのがエグリ・ウーリエ。前者は誰でも名前を知っている高級シャンパン、後者は造り手の名前で選ぶ小規模生産者のシャンパンで、同じ夜に両方が出ていることが、このあと教授の言う「金持ちの道楽」の中身をあらかじめ二つに割って見せている。作中の銘柄:ドン・ペリニヨン ロゼ/エグリ・ウーリエ

名前が出ただけのお酒

モエ・エ・シャンドン ブリュット アンペリアル
佐々倉が最初に教授へ勧めて、断られるシャンパン。ここでは注がれないので飲まれた酒には数えないが、最後のブラック・ベルベットで開くのは同じモエのボトルになる。断られた一杯が、形を変えてもう一度同じ客の前に出てくる構成になっている。

「クリスマスの奇跡 = ブラック・ベルベット」

この回の題には酒の名前が入っていない。にもかかわらず、奇跡と呼ばれているものはひとつしかなくて、それが最後に出てくるブラック・ベルベットの一杯になる。前の話の「バー・ホッパー = グラスホッパー」のような言葉遊びではなく、出来事のほうがそのまま題になっている形だ。

奇跡と呼べる理由を用意しているのが、客の職業になっている。沖田教授の専門は数値流体力学、つまり液体と気体の流れを計算で追う学問で、その教授が「ビールとシャンパンは永遠にまじわらない」と言う。混ざらないことを職業的に知っている人間の前で混ぜてみせる、という賭けの立て方になっている。

だから題の「奇跡」は宗教的な奇跡ではなく、計算では出てこないほうの答えを指している。しかも佐々倉はそれを奇跡として売らない。あとで見るように、練習すれば誰でも出来ると本人が言ってしまう。題が大きく出ているぶん、答えの側が徹底して手仕事に落とされている回になっている。

泡を見る話として最初に黒ビールが出てくる

シャンパンを断った教授に佐々倉が出すのは黒ビールで、ラベルはギネスのエクストラ・スタウトが読める。ここで語られるのが泡箱の逸話だ。ノーベル賞物理学者のドナルド・グレーザーが、ビールの泡を見ていて泡箱——荷電粒子の通り道を泡の列として見えるようにする装置——を思いついた、という話が黒ビールに添えられる。

この置き方がうまい。教授にとって泡は計算の対象で、佐々倉にとっては注ぎ方で変わるものだ。同じ泡を、片方は数式で、片方は手で扱っている。この一杯があるおかげで、最後の勝負が「泡をどう立てるか」の勝負として読める形になっている。黒ビールは飲み物としてより先に、見るための液体としてカウンターに置かれている。

この漫画にしては珍しく、その薀蓄が酒そのものの歴史ではなく物理のほうへ伸びているのも、この回の性格をよく表している。銘柄の話も、産地の話も、この回にはほとんど出てこない。出てくるのは、立てたグラスに炭酸の液体を2つ落としたらどうなるか、という一点だけだ。

両手注ぎ ── 3秒で注ぎ切るということ

作中の作り方は明快で、左右の手に持ったシャンパンとスタウトのボトルから、立てたままのフルートグラスへ同時に同量を注ぐ。これだけだ。難しいのは、炭酸を含む液体を2つ同時に落とせば普通は吹き上がってこぼれる、という一点で、佐々倉はそれを3秒で注ぎ切ってみせる。

神業とされる理由も作中で説明されている。シャンパンのボトルとスタウトのボトルは重さも注ぎ口の口径も違う。同じ量を同じ速さで出すには、左右の手で別々の傾け方をしないといけない。カクテルブックにも「同時に注ぐ」とは書かれているが、このスピードで注げるバーテンダーは日本に5人といないはず、という言い方をされる。

面白いのは、それを言われた佐々倉の返しのほうだ。泡の立ち方と流量をコントロールする練習をすれば誰にでも出来る、と答える。奇跡として持ち上げられた技術を、本人が練習量の問題に引き戻す。この回の題と結末が噛み合っているのはこの一言のためで、うちの立場から言っても、これは家で練習する余地のある技術になっている。

家でブラック・ベルベットを作る

うちの組み方はスタウト75ml・シャンパン75ml、氷を入れずにフルートグラスへ。作中に分量は書かれていないが、この一杯は昔から半々と決まっていて、佐々倉が「同量を注ぐ」と言っているのもそこに沿っている。度数はおおむね7%前後で、見た目より軽い。冷やす手間だけで味の8割が決まる種類の一杯になる。

両手注ぎは最初からやらなくていい。片方ずつ注ぐ順番が決まっていて、先にスタウトをグラスの半分まで入れ、そこへバースプーンの背に伝わせてシャンパンを静かに重ねる。逆にすると軽いほうが下になって層にならない。どちらの液体も泡が立つので、注ぐ速さは自分の目で泡の高さを見ながら決める。ここが実質、作中の技術の家庭版になる。

材料はスタウトのほうが効く。ギネスならボトルのエクストラ・スタウトが定番で、窒素で注ぐドラフト缶よりも炭酸と苦味が立つぶん、シャンパンに負けない。シャンパンの側は無理をしなくていい。辛口のカヴァやプロセッコで十分に成立するし、そもそも黒ビールと混ぜてしまうので、高いボトルの繊細な香りは半分ほど隠れる。

冷やし方だけは省けない。スタウト・シャンパン・グラスの3つとも冷蔵庫に入れておく。氷は入れない——溶けた水で薄まるうえ、泡が一気に落ちる。作ったら混ぜずにそのまま出して、飲む側が層を通して飲む。混ぜるほど泡が消えて、この一杯の身上である細かい泡の喉越しがなくなる。

作中の「ビール以上のビール、シャンパン以上のシャンパン」という言い方は誇張ではない。黒ビールの焙煎した麦の苦味に、シャンパンの酸と細かい泡が乗ると、どちらの単体よりも輪郭がはっきりする。名前のベルベットは、作中の説明では鹿の角に生える柔らかい産毛のことで、口当たりのほうを指した名前になっている。

当ページは作品の紹介と、作中に登場するお酒についての解説です。作品本文・画像の転載はしていません。 引用した台詞は解説に必要な範囲にとどめています。
『バーテンダー』/城アラキ・長友健篩/集英社・スーパージャンプ